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新・日本のやさしい化粧文化史

古代、化粧のはじまりから美白ブームの平成まで、日本の化粧の歴史・文化を辿るコンテンツです。

第34回 近代化粧の幕開け 明治時代−6 美意識の変革<髪型:日本髪から束髪へ>

上:日本髪に変わる新しい髪型「束髪」が図解で提唱された 大日本婦人束髪図解/明治18年
左下:あげ巻/明治時代の髪型、下中:マガレイト/明治時代の髪型
右下:二百三高地髷(廂髪)/明治時代の髪型

【2.束髪の奨励運動】

そのような中、明治18年(1885)になると、広く一般女性に向けた「束髪スタイル」の奨励運動が起こります。医師の渡邉鼎(わたなべかなえ)と経済記者の石川瑛作(いしかわえいさく)によって、日本髪を廃止し、新しい髪型にしようという運動、「婦人束髪会」が設立されたのです。それまでの日本髪は、@不便、A不経済、B不潔という理由から、新ヘアスタイル「束髪」の奨励が提唱されたのです。
「婦人束髪会」の趣旨を徹底させるために、「大日本束髪図解」という三枚続きの錦絵が発行されています。(図版参照)
この錦絵では、会の趣旨とともに、4種類の束髪、「上げ巻」「下げ巻」「イギリス結び」「マガレイト」を図示して説明しています。ここで提案されたヘアスタイルは、いずれも日本髪のときにはなかった髪を編むスタイルがベースで、垂らしたり、丸めて髷を作るなど、日本髪と比べて軽く、簡単に結えるように考えられています。
中でも三つ編みをベースにリボンを飾った「マガレイト」やすっきりとしたアップスタイル「上げ巻」は女性たちの間で人気となり、和服にも似合い自分で結えることもあって、たちまち東京を始め、大都市に流行し、全国にまで広まっていきます。

【3.廂髪(ひさしがみ)の流行】

ところが明治27年(1894)頃から、日清戦争の影響で国粋主義が台頭し、一時、洋風文化である束髪は影をひそめ、再び日本髪に戻る風潮となります。
ただし、明治30年を過ぎる頃には束髪が復活しだし、明治35年(1902)頃には再び、入れ髪をして前髪を極端に張り出した束髪の「廂髪(ひさしがみ)」と呼ばれる新しい髪型が登場します。まず女学生の間で流行し、その後、一般の女性にまで広まっていきます。
この廂髪流行の時期に日露戦争(明治37年勃発)の二百三高地奪取が大きな話題となったことで、人々は髷の高くなったところに二百三高地を連想して、廂髪を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」と呼ぶようになっています。
その後も束髪スタイルの流行は続き、徐々に束髪系統の髪型は一般女性に浸透していきます。

このように、明治時代になって登場した束髪は、当初は目新しい洋風ファッションの髪型でした。その後、女学生から一般女性にまで徐々に人気が広がっていきましたが、束髪は新しいヘアスタイルとして受け入れられながらも、日本髪の復活もありで、髪型に関しても近代化への過渡期であったことが分かりますね。

次回はいよいよ明治時代を代表する女性「明治美人」について引き続きお伝えします。
3月6日更新、お楽しみに!

参考文献
『近・現代化粧文化史年表』/ポーラ文化研究所編
『明治・大正・昭和の化粧文化/時代背景と化粧・美容の変遷』/ポーラ文化研究所編
『モダン化粧史/粧いの80年』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性史/ハイカラモダン・化粧・髪型』/ポーラ文化研究所編
『結うこころ 日本髪は語る』/ポーラ文化研究所編

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