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やさしい化粧文化史 -入門編-

多くの日本女性にとって、毎日の生活に欠かせない化粧。では、いつから私たちは化粧をはじめたのでしょうか。このコンテンツでは、古代、化粧のはじまりから現代まで、女性を魅了し続けてきた化粧の歴史をご紹介します。

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第1回 化粧のはじまり

化粧の起源 〜悪いものから身を守る、呪術としての化粧〜

日本人の化粧のはじまりはいつだったのでしょう。
現在確認されているのは、3世紀後半頃の古墳時代。
身分の高い豪族のお墓の副葬品である「埴輪(はにわ)」に、赤い顔料で顔や身体に化粧を施したものが残されているのです。

赤い色は悪いものから身を守るという呪術的な意味があると推測され、それは血の色や太陽に通じているからだと考えられています。現代の私たちの“おしゃれ感覚”のメークとは、全く異なるものでした。

(左)「巫女の埴輪」高崎市保渡田VII遺跡出土/かみつけの里博物館蔵
赤い顔料で化粧をした埴輪

「巫女の埴輪」高崎市保渡田VII遺跡出土

現代に通じるメークが登場した飛鳥時代

それでは現代のような“おしゃれ”を意識したメークは、いつごろから始まったのでしょうか。
最も古く確認できるのは飛鳥時代、6世紀後半のこと。仏教が伝来し、聖徳太子が誕生した頃になります。大陸では隋が中国を統一し、日本からは遣隋使(けんずいし)が派遣されていました。
そんな中、大陸から紅や白粉(おしろい)、香といった化粧品が輸入され、日本におけるメークが始まったとみられています。

(左)「鳥毛立女屏風」第四扇(部分)/正倉院蔵
唐風のファッションと化粧を施している。

「鳥毛立女屏風」第四扇/正倉院蔵

当時の白粉は鉛を酢で蒸して作られていたといいます。
この時期、日本でも初めて鉛を使った白粉(鉛白粉)が作られ、女帝である持統天皇が献上された鉛白粉を大変喜んだと『日本書紀』に記されています。

(右)「鳥毛立女屏風」第四扇(部分拡大)/正倉院蔵
額中央に花鈿(かでん)、口元によう鈿(ようでん)と呼ばれる特徴的なポイントメークが描かれている。

「鳥毛立女屏風」第四扇(部分拡大)正倉院蔵

宮廷女性のメークは、唐の国がお手本

その当時、宮廷の女官は顔に白粉を塗り、紅を使ったポイントメークをしていたと見られます。正倉院に伝わる奈良時代中期、日本で描かれた「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」の女性像を見ると、宮廷女性のメークの片鱗を感じることができます。この屏風には、唐風の女性が樹の下に立っている姿が描かれています。

女性は顔に白粉を塗り、太く眉を描き、紅を使ってふっくらとした唇を描いています。額中央には“花鈿”(かでん)、口元には“よう鈿”(ようでん)と呼ばれる、カラフルな色で花や星を描く化粧が施されているのが特徴的です。同じ絵柄が中国の敦煌(とんこう)の壁画にもあることからも唐のメーク法が日本にも伝わっていたことがわかります。

当時の宮廷の生活様式は、唐の様式を取り入れており、女性が追い求めた「美」も海外の文化を手本にしたものであったといえます。大陸の影響からスタートした日本の化粧文化。日本独自の化粧が花開いたのは、平安時代に入ってからのことでした。

次回はその歴史をひもといていきます。

参考文献
日本の化粧』/ポーラ文化研究所編
『化粧物語』/高橋雅夫著 雄山閣
化粧史文献資料年表』/ポーラ文化研究所編

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